縄文 VS 弥生

縄文vs弥生ガチンコ
「ガチンコ対決! 縄文 VS 弥生」。
これは、2005年に国立科学博物館で開催された特別展のタイトルです。ちょっと挑発的です。
縄文文化と弥生文化を比較し、縄文人と弥生人の違い、日本人のルーツは縄文なのか弥生なのかという最新の研究成果が展示されました。
右のポスターからもわかるように、博物館としては
かなり踏み込んだアピールです。
「縄文 VS 弥生」に関連してお話しします。

長くなってしまいましたので目次を示します。
1.三内丸山遺跡 -縄文の常識を覆した青森の遺跡
2.吉野ヶ里遺跡 -邪馬台国ではないかと言われた佐賀の弥生遺跡
3.縄文人と弥生人 -現在の日本人のルーツは?

1.三内丸山遺跡 -縄文の常識を覆した青森の遺跡

昨年、青森旅行をして、三内丸山(さんないまるやま)遺跡に行ってきました。
私は発見初期のころに次いで2回目の訪問ですが、立派な博物館ができていました。
博物館は、さらっと展示を見せた後、どうぞ現地をご覧下さいと遺跡の入り口が開いています。
遺跡見学の後、さらに詳しい展示を見ることができます。
時間ごとにボランティアの方の見学ツアーがあり、一緒に遺跡を歩いて説明してくれます。
「ここは重要な墓地群です、これから詳しい発掘が始まるのでしばらく見学できなくなります」
など現地の方ならではのお話しを聞くことができました。

この周辺では、昔から、変な遺物が出るぞと言われていたそうですが、
野球場を作ろうと工事を始めたら、大量の埋蔵物が発見され、大きな遺跡が確認されました。
しかも、ただの遺跡ではない、巨大な6本の柱跡がある縄文時代の大きな集落跡でした。
ただちに工事を中止して発掘と調査が行われました。

その結果、三内丸山遺跡は、それまでの縄文の常識を覆すとんでもないもので
あることがわかりました。
約5500年前~4000年前(エジプト文明の時代です)、日本の北辺地域に
1000年以上も営々と続く集落があったのです。
縄文の人々が狩猟の移動生活ではなく、大きな集落を作って定住していたこと、
直径1mもの6本のクリの柱による高さ15mのやぐらのような施設を作っていたこと、
集会場か作業場か、長さ32mの巨大な家があったこと、
農耕ではないですが、クリやクルミを植えて、しかも品種改良しながら
食料や、建築材や燃料に利用していたこと、
ヒスイ、黒曜石などが見られ、新潟や北海道など遠方と交易があったこと、
土器や土偶、漆器、樹皮で編まれた縄文ポシェット(このたびは貸し出し中で
家内に見せることができませんでした)などの芸術性や、専門職の存在が伺えること
などなどいずれも驚くことばかりです。

私が最初に三内丸山に行った時は、発掘作業の様子を現場で見ることができ、
発掘が終わったばかりの貝塚(当時のゴミ捨て場)の切り通しを歩くことができ
(現在は保存のため、ガラス越しでしか見ることができません)、
ボランティアの方が、今と同じように遺跡を説明してくれました。
発掘や調査の様子を見せ、保存のあり方を提示し、子どもにもわかりやすく解説する。
遺跡の展示のあり方はこうではないかと思いました。
しかも、現在もそうですが、博物館を含めて料金を取らないのです。
この地域の方々のこの遺跡に懸ける想いには頭が下がります。
発掘作業や解説のボランティアの方もそうですが、金銭や商売ではなく、
この遺跡を皆さんに知ってもらいたい、遺跡は地域の誇りだという気持ちがわかります。

2.吉野ヶ里遺跡 -邪馬台国ではないかと言われた佐賀の弥生遺跡

一方、弥生の遺跡として有名なものには、静岡の登呂(とろ)遺跡、
佐賀の吉野ヶ里(よしのがり)遺跡、奈良の纒向(まきむく)遺跡などがあります。
登呂遺跡は大規模な水田が整備されていたことで知られ、
吉野ヶ里と纒向はどちらも「邪馬台国の卑弥呼」の都ではないかと推定されました。

邪馬台国は、ご存じのとおり、中国の魏志倭人伝にある日本の記述で、
女王・卑弥呼が倭国を統率していたと記されています。
その邪馬台国がどこにあったか、新井白石から始まって300年間論争が続けられています。
有力な説は九州説と畿内説があり、九州で邪馬台国の都と比定されるのが吉野ヶ里遺跡、
畿内(奈良ほか)で有力とされるのが纒向遺跡です。
私は纒向が本命ではないかと思いますが、今後の調査が待たれます。

九州・佐賀の吉野ヶ里遺跡は日本最大級の弥生時代の遺跡です。
二重の環濠と柵に囲まれ、複数の物見櫓があり、魏志倭人伝の記述と一致しています。
でも、これだけ防御を固めるというのは外敵に備えていたということでしょう。
縄文の遺跡ではあまり例がありません。

吉野ヶ里遺跡で印象的だったのは甕棺(かめかん)です。
甕棺は死者を葬るための棺で、吉野ヶ里の墓所から大量に発見されました。
甕棺のおかげで骨が残りやすくなり、遺物が発見されて多くの考古学的資料が残されました。
子どもの甕棺も多くありました。当時は衛生や栄養事情が良くなく、
生まれてすぐ、または何年もしないうちに亡くなる子が多かったといいます。
もっとも、現在でこそ長寿とか高齢化と言いますが、
つい最近まで、人生50年と言われ、子どもが七五三まで生きられたことを祝い、
成人式(元服)を祝ったではありませんか。

吉野ヶ里の甕棺の数はおびただしいものです。それだけ長く続いた大きな集落
であり、人口も死者も多かったのでしょう。
その人たちを丁重に葬る余裕があったことが注目されます。
しかし、吉野ヶ里の甕棺の人骨で気になるのは刀傷や矢の跡です。
金属辺が残ったままの人骨もあり、それだけ戦争で倒れた死者が
多かったということでしょう。
吉野ヶ里の堀や柵などの防御施設といい、外敵のある危ない時代だったと思われます。

縄文は、狩猟を中心にして自然と協調しながら暮らしていましたが、
弥生では稲作など農耕が行われ、土地に対する執着や、領土という考えができ、
オラが土地、これを守らなければ、あるいは、もしこれを拡大することができれば、
ということで、集落間や、後に国と呼ばれる地域の間で戦争が起こったと思われます。
青銅器や鉄器など強力な武器を作る技術もすでにありました。

農耕により食料の生産力が上がれば人口が増えることができます。しかし、
その人口を維持するためには毎年食料が必要です。イネが不作の年などは、
集落の村長はどうしようもなく隣の集落の食料を狙うこともあったと思われます。
交易などの手段もあるでしょうが、略奪が最も手っ取り早い方法です。
しかもその土地を自分のものにできたら、自分たちの民を移住させて
さらに勢力を拡大することができます。これが戦争の原点ではないでしょうか。

3.縄文人と弥生人 -現在の日本人のルーツは?

縄文と弥生では受けるイメージが異なります。縄文土器と弥生土器
よく言われたのは、縄文は狩猟生活で獲物を追いながら食うや食わずの不安定な生活だった。
対して、弥生は稲作など食料生産力があったので生活は安定していた。
あるいは、縄文土器は荒っぽくて無骨だが、弥生土器は洗練されていて美しい。
本当にそうでしょうか? 縄文の火炎土器のように強いパッションを感じる表現はひもじい不安定な生活の人がなせる技でしょうか。ましてや、実用だけならそんな装飾性のあるものを作ったでしょうか。

縄文人と弥生人は異なると言われます。
前の国立博物館のポスターを再掲します。
このポスターを作る時は、モデルさんをオーディションして
最も縄文人らしい人と最も弥生人らしい人を選んだそうです。縄文vs弥生
その選定のポイントは、縄文人は身長が低い、手足が細くて長い、
対して弥生人はそれより身長が高いが手足は太くて短い。
顔でいうと、縄文は四角張っていてあごが張っている、弥生は顔が細長くあごが横に張っていない。
縄文は目の上の骨がしっかり見えて目鼻立ちがはっきりしているが、弥生はそれがなく、比較的のっぺりした顔ではなかったか。

縄文人の顔は、ほりが深く、目がぱっちりしていて二重まぶた、
鼻が高く、唇が厚く、今でいうなら「濃い顔」、
対して弥生人は、中国北部や朝鮮の人に似ていて、わりとのっぺり、
一重まぶたで、鼻は低く唇は薄かったといわれています。

面白い話は耳たぶです。縄文の遺跡ではイヤリグがたくさん見つかりますが、
弥生ではほとんど見られなくなります。
これは、縄文人はイヤリングをすることができたが、
弥生人は耳たぶが小さくてイヤリングをすることができなかったのではないかというのです。

縄文人と弥生人は異なる。縄文人を在来の日本人とするならば、
弥生人は中国大陸から、あるいは朝鮮半島を経てやってきた人がルーツで、
その人たちは稲作と金属器を使う文化を携えてやってきた。
おそらくは北九州に上陸し、その後、在来縄文人と混血しながら稲作とともに広まり、
現在の日本人になっていったのではないか、と言われています。

そのため、明治まで稲作のなかった北海道(アイヌ)と、
13世紀ころまで稲作が定着しなかった琉球列島では、
文化移入と混血が進まなかったので、在来の縄文人の性質が残されたのではないか、
日本の南北に在来縄文人の血が濃く残されたのではないかと言われました。
確かに、アイヌの人と沖縄の人は、眉毛など体毛が濃かったり、
顔かたちが四角張って頑丈に見えたりすることが似ています。縄文顔です。

私が学生のころまではアイヌ異人説がありました。アイヌは日本人とは異なる、
むしろ西洋人に近く、アジアにポツンと残された西洋人種の孤島ではないかと言われました。
しかし、最近のDNAの研究では、アイヌも沖縄の人も、現在の日本人と
変わるところは少ないそうです。同じ日本人です。
ただし、沖縄の人は台湾やフィリピンなど南方系の人の影響が見られ、
アイヌは北方の人との共通点が見られるそうです。

私は北海道にいて、アイヌの人を結構身近に感じていましたが、
いまだにアイヌやその文化を理解・整理できていません。
いずれ、そのことや、アイヌの人が和人にどのような仕打ちをされてきたか
ご紹介したいと思います。

この記事は、三内丸山で入手した下の本を参考にさせていただきました。
北海道と東北3県は「北海道・北東北を中心とした縄文遺跡群」を
世界遺産に登録しようと運動しています。この本はその活動の一環です。
しかし、どうも最近のユネスコの審査では分が悪いようです。
私は北海道に戻ってきてこの世界遺産登録の活動を知りましたが、
アイヌを飛び越して縄文をアピールしたいのかい、とちょっと不満でした。
また今度の機会に。

※「縄文人はどこからきたか? 北の縄文連続講座・記録集」北の縄文文化を
発信する会・編 発売:(株)インテリジェント・リンク、2012年
2015.01.23

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「こんないいオヤジ」 こと 今内祥雅(こんない よしまさ) と申します。 60歳。札幌市で妻と2人暮らし。 元公務員、現在は自営などその日暮らし。 「プロフィール」をご覧ください。
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