網走監獄と樺戸集治監

九州・熊本で大きな地震が頻発し、甚大な被害が出ています。
亡くなった方、ご遺族の方にお悔やみを申し上げます。
関係される方には申し訳ありませんが、予定していた原稿をアップします。
時宜をわきまえず、監獄、刑務所、集治監についてです。

先日、月形町の月形樺戸(つきがたかばと)博物館へ行ってきました。
家内がまた働き始めて、疲れているだろうと思い、
「今日の休日はゆっくり休むか? それとも天気がいいからどこか
出かけてみるか?」と聞くと「樺戸集治監へ行きたい」と
言います。びっくりしました。

月形樺戸博物館は、前にも家内と行ったことがあるのですが、
また集治監へ行きたいというのは驚きでした。

集治監(しゅうじかん)というのは、明治期の刑務所のことです。
一般の牢屋で納まりきれなくなった罪人を収容する目的で
国営の「集治監」が全国8か所(分館を含む)に設置されました。
そして、明治期と言えば、西南戦争や自由民権運動などに関する
国事犯や政治犯があって、これを収容する目的がありました。
北海道の樺戸集治監、空知集治監、網走監獄についてご紹介します。

1.樺戸集治監

宮城・仙台、東京・小菅に次いで、3番目の集治監として
明治14年(1881年)、樺戸集治監が設置されました。
主な目的は、懲役10年以上の重罪犯を隔離・収容することです。
北海道は、脱獄・逃亡が困難なことや、囚人を開拓に任務させる
ことで一石二鳥、ロシアの南下に対応するためにも重要でした。

囚人たちは、原始林を切り開き、木材を伐りだして
自分たちが収容される集治監を造りました。農地を作り、
水道を作り、味噌醤油の工場を作り、食料は全て自給自足でした。

NHK大河ドラマで、菅原文太主演の「獅子の時代」が
1980年に放映されました。
会津藩士だった文太アニィが、会津戦争、箱館戦争を戦い、
移住した下北半島で辛苦の生活を味わい、あげく、無実の罪で
樺戸集治館へ送られてしまうのです。

集治監の生活は過酷なものでした。
道路建設や森林の伐採・木材の搬出、農地の造成、炭鉱労働、
鉄道用地や水道の建設。囚人は使い捨ててもいいというような
過酷な労働でした。過労や栄養不足、寒さで亡くなる受刑者が多くでました。

脱獄を企てようものなら、見つけ次第斬り殺されたり、
真っ暗闇の独居房に入れられました。90cm四方の狭い空間に
正座させられ、立つことも横になることもできず、食事は
通常の半分以下に減らされたそうです。
革の着衣に水をかけて着せられ、乾くにつれて体が締め付けられる
懲罰もあったといいます。

重い鉄球の付いた足輪で拘束されたり、寝るときは皆
一本の丸太を枕にして寝かされました。朝、起こす時はその丸太を
小槌で叩いて起こします。「叩き起こす」の語源だといいます。

この時代、囚人は人間扱いされませんでした。
しかし、月形町の人たちは、街の基盤を作ってくれた幾多の囚人の
労苦に感謝し、慰霊するために月形樺戸博物館を設けました。
なお、月形町の名は、初代の樺戸集治監典獄(てんごく=監長)、
月形潔に由来します。

2.空知集治監

樺戸集治監から、かつて囚人が造った峰延道路を通って三笠市立博物館へ
行きました。この博物館はアンモナイトなど化石の博物館として有名です。

その一角に、空知(そらち)集治監のコーナーがありました。
空知集治監は、幌内(ほろない)炭鉱の労働に囚人を使うことを目的として、
明治15年(1882年、樺戸集治監開設の翌年)に設置されました。
現在も利用者の多い峰延道路は両集治監の連絡のために造られたものです。

炭鉱の坑内で働く囚人は、1日2交代、12時間ぶっ続けの
労働だったそうです。坑内の空気は石炭の粉塵やガスが混じっており、
ガス爆発がたびたび起き、まさに命がけの仕事でした。
事故でケガをしたり、健康を害する囚人が多くいました。
あまりの過酷さから、脱走する囚人が後を絶たなかったといいます。

空知集治鑑も樺戸集治監と同様、懲役の長い重罪犯を収容していましたが、
その中には、自由民権運動に関わって捕えられ、強盗や殺人の罪を着せられて
服役した者が多くありました。その数は樺戸より空知が多かったそうです。
(文太アニィも収容先は樺戸より空知だったかも)
それらの囚人は、教養もあり、服役態度も良かったため、
周りの囚人や看守から一目置かれていたといいます。多くの政治犯は、
特赦などにより明治30年までには集治監を出られたそうです。

3.網走監獄

網走刑務所は、高倉健主演の映画「網走番外地」でよく知られています。
前述の2つが集治監なのに、なぜ網走が監獄かというと、
網走は設立が比較的新しく、明治23年(1890年)、釧路監獄署網走囚徒外役所
として開設されました。集治監→監獄→刑務所という名称は、
所轄官庁など法律上のことですが、諸外国から、日本の囚人の扱いが
ひどいと苦言が訂せられたことも一つの要因です。

今、網走では「博物館 網走監獄」を観光名所として売り出していますので、
ここでは網走監獄という名称を使います。
なお、大正11年から名称は網走刑務所となっています。
私の出身地でもあり、刑務所の元看守の方とのつきあいもありました。
博物館 網走監獄はリアルな展示が多くて興味深いですよ。

網走監獄は、日本一脱走が困難な刑務所と言われました。
もし脱獄しても、どこに行ったらいいか(冬は周りは雪原だけ)、
どうやって生きながらえるか(人家が少ない)わかりません。
開設当初は、終身刑など重罪犯が集められて収容されました。

博物館にも展示されていますが、「五寸釘の寅吉」のエピソードは
私も小さい時から聞いていました。寅吉はとても身が軽く、
濡れた手ぬぐいをひょいと投げる勢いだけで壁を乗り越えたといいます。
イカサマ博打を繰り返し各地の集治監に収監されましたが脱獄の常習犯です。
ある時、網走刑務所の壁を越えて降りた時に、たまたま
板に付いたた五寸釘を踏み抜いてしまいました。
しかしそのまま12kmも逃走。結局、捕まりましたが、
この時以来「五寸釘」の異名がヒーローのようにつけられました。
寅吉は、高齢になって出所した後は、防犯の講演や演劇で活躍したそうです。

「鎖塚(くさりづか)」という遺跡があります。
現在はJR石北本線の近くですが、何か幽霊のようなものが出ると話が
広まりました。ここは網走監獄の囚人が築いた囚人道路の一部です。
足に鎖をつけられた囚人が運ばれ、苦役に従事しました。
死亡したものは鎖を着けられたまま土まんじゅうに埋葬されました。
亡くなった囚人は200名以上といい、幽霊はその怨念ではないかと噂されました。
私は北見工業高校の小池喜孝先生の著作によってその事実を知りました。
現在は供養碑が建てられ、毎年法要が行われ、幽霊の噂は少なくなりました。

網走監獄は、現在では再犯者や暴力団員など、短期の受刑者を受け入れる
施設になっています。網走刑務所では死刑が実行されたことはありません。
受刑者を農畜産業やニポポ人形の製作など木工作業に従事させています。
1984年の改築以後、暖房設備を完備した監房はマンションに比され、
うわさでは、冬が近くなると、万引きなど軽犯罪の再犯を犯して
網走刑務所に入れてほしいという不届き者がいるという話を聞きました。

しかし、刑務所は刑務所です。
体も時間も拘束され、たとえば入浴の時は、ホイッスルの音で
湯に入る時間、体を洗う時間が制限されるそうです。
ピッというホイッスルの音と、その時に看守が親指を立てる動作に
反応する人は以前受刑者であったかもしれないと元看守の人に教えられました。

北海道の開拓に当たって、囚人の労働が非常に重要だったことは拒めません。
ただし、それが人権を侵すものであったことを除いて。 2016/04/16

konnaii について

「こんないいオヤジ」 こと 今内祥雅(こんない よしまさ) と申します。 60歳。札幌市で妻と2人暮らし。 元公務員、現在は自営などその日暮らし。 「プロフィール」をご覧ください。
カテゴリー: 旅行, 未分類, 歴史, 農林業・自然 タグ: , , , , , パーマリンク

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