たたら製鉄について -日本刀の素材「玉鋼」

3.たたらの独自の社会

島根県雲南市吉田町の菅谷高殿(すがやたたら)は、国内で唯一残された
江戸時代からのたたら史跡です。その周囲には、「たたら山内(さんない)」と
呼ばれる仕事場と集落が残されています。
これを見ると、そこには間違いなく、里とは違う一つの人間社会があったことが
感じられます。

たたらは特殊な社会集団でした。里と隔絶し、山内という
自給自足で治外法権の社会を形成していました。
一つの山内には30~40戸、100~200人が住まっていました。
その中でも、菅谷たたらは約2,000人が集落を形成していたといいます。

いろいろな職人、工人が仕事を分担していました。
技師長に当たる「村下(むらげ)」が統括してたたらを吹き、
その下に「炭坂」、炭を投入する「炭焚」、たたらを踏む「番子」
(「替わりばんこ」の語源)などの作業員がいました。
事務所に相当する元小屋、山全体の差配に当たる「山配」、
鉄穴流しを扱う「鉄穴師」、そのほかに、炭焼きの「山子」や
製品の選別・加工・鍛冶に当たる職人や作業員が大勢いました。

これらの従業員は、代々山内の住宅に住まいしていましたが、
番子などは流れ者も多くおり、山内では独自の法度を設け、
十手・取り縄など警察権を行使していたといいます。
里とは異なる全く独自の社会を形成していたのです。

また、どこの山内でも必ず金屋子(かなやご)神という
製鉄の神様が祀られていました。現在の製鉄所でも、
その伝統に則って金屋子神が祀られているそうです。
金屋子神は人に製鉄の技術を教えてくれた神様で、女神なので女嫌いで、
たたら場に女性が入ることはいっさい許されませんでした。
女人禁制。技師長に相当する村下は、女房が月のものや
お産の時には決してたたら場に入らなかったそうです。

4.たたら製鉄の歴史と現在

ところで、たたら製鉄はいつごろから始まったのでしょうか。
日本に鉄がもたらされたのは縄文時代晩期、おそらく稲作の伝来と同じころと
いわれています。
弥生時代には、朝鮮半島から渡来した刀や農機具などの鉄製品が貴重に使われます。
これを再生・加工する鍛冶の施設はありましたが、弥生時代に製鉄が行われたか
どうかは定かでないようです。
古墳時代、6世紀には製鉄が行われた遺跡が九州や中国地方などで多数見られる
ようになります。

面白いことに、同じ中国地方でも、山陰では砂鉄を材料にしていたのに対して、
山陽・岡山県などでは岩鉄(鉄鉱石)を材料にしたというのです。
それぞれの文化圏で系統の違う製鉄法が伝来したと思われます。

出雲地方では、砂鉄を用いた小さな「野だたら」から始まって
次第に規模の大きなたたらが作られます。
室町時代には日本刀の需要が急激に増え、たたらの生産がより大規模になります。
こうして、たたら製鉄の技術が改良・発展し、江戸時代中期には
「近世たたら製鉄法」が確立しました。

その技術を継承しているたたら製鉄の施設を紹介しましょう。
下の写真は、現在、国内で唯一たたら製鉄の操業を行っている奥出雲町大呂の
「日刀保(にっとうほ)たたら」です。(財)日本美術刀剣保存協会が運営し、
日本刀の素材である玉鋼を生産するために年に数回だけ操業しています。

たたら製鉄は、効率的な西洋製鉄法に対抗することができず、大正時代末に
一度消滅しました。第二次世界大戦で軍刀を生産するために復活しますが、
戦後はまたしばらく途絶えていました。
しかし、日本刀の素材である玉鋼は、たたら製鉄のほかに作ることができません。
玉鋼は、不純物の少ない純度の高いハガネで、鍛錬を繰り返すことによって、
硬く、粘り強く、錆びない刀が作れるのだそうです。
美術品であり、伝統工芸である日本刀の生産とその技術を継承するため、
昭和52年、日刀保たたらが開設され、たたら製鉄が復活しました。

たたらの炉の仕組みを見てみましょう。
「たたら」とはフイゴのことを意味しますが、木炭を燃やす炉と空気を送るフイゴは
切っても切り離せません。やがて炉や施設全体をたたらと呼ぶようになりました。
「たたら」とは、製鉄のことを言うのか、炉のことか、施設・建物か、はたまた
集落であるたたら山内を言うのか、混同されて時々で同じ言葉が使われたようです。

フイゴは、かつては番子が踏んでいましたが、明治時代には水車の動力を
利用するようになり、現在はモーターで稼働しています。
炉の外観は、粘土で作られた幅1.5m✕長さ3m✕高さ1mほどの大きさですが、
実はこの部分は一回の操業ごとに壊されてしまいます。
地表に出ている部分はごく一部で、地下には、深さ3mもの大きな構造があります。

製鉄は水分や湿気を最も嫌うため、最下部に排水溝があり、そこへ雨水などの水を
導く砕石、砂利などの構造があります。
小舟と呼ばれる炉のサイドの空洞は、製鉄をする前に、ここで薪を燃やして
炉全体を乾燥するためのものです。
地上の炉は製鉄の都度造られ壊されますが、地下の構造はそのまま利用され続ける
基本施設なのです。

製鉄を始めるには、まず木炭を燃やして炉の温度を上げます。
たたら製鉄の炉の温度は1000度から1500度といい、製鉄法の中では低い部類に
属します(現在の製鉄の高炉は約2000度)。
しかし、内部が1000度を超す炉の周りに、人が3昼夜張り付いて作業をする
のですから過酷な仕事です。
炉の温度が上がると砂鉄が装入されます。その後、砂鉄と木炭をそれぞれ約30分
ごとに装入していきます。

村下(むらげ)は、吹き上がる炎の色を見、送風管から炉内の状況を観察し、
温度が適切に保たれるようフイゴの送風量と木炭・砂鉄を装入するタイミングを
指示します。製鉄の全てが村下に委ねられています。
たたら製鉄にマニュアルはありません。すべて村下の目と勘によって
作業が指示され進められます。村下は3昼夜不眠不休です。

製鉄の成否、製品の良し悪しは村下次第です。
それだけ村下の技術と力量が求められます。
日刀保たたらでは、村下の養成員制度を設け、技術の伝承と次世代の育成を
図っています。現在、2名の村下と10名の養成員がいます。
先に紹介した現在の村下 木原さんは養成員第1期生で、先代の村下から
「自分の目で見て学び取れ」と指導され、9年かかかって村下に就任したそうです。

鉄の精錬が進んでくると、「ノロ」と呼ばれる砂鉄の不純物(鉄滓)が
炉の底部から出てきて、赤い高温の液体ノロがのたうち回ります。
一方、ハガネの塊、「ケラ」が炉の中で次第に成長していきます。
行程が進むにつれて砂鉄と木炭の装入量を増やします。
炉の粘土の壁がだんだん消耗します。3日3晩を過ぎたころ、壁が限界に至ります。
村下はそのタイミングを見極めてフイゴの送風を止め、たたらの操業が終わります。

その後、炉を打ち壊し、温度を冷やしてから「ケラ出し」が行われます。
ケラは部位によって品質が異なりますので砕いて品質別に選別して製品になります。

1日目の朝から始めて4日目の朝ころ終了する、
この一回の操業で使用する砂鉄は約10トン、できるケラは2.5トンです。
残りはノロとして排出されます。
都合、製品歩合は25%、現在の製鉄法の歩留まりは80%以上といわれますので、たたら製鉄の効率はかなり低いと言わざるを得ません。
しかもケラのうち、玉鋼として使えるのは1トンに満たず、さらに日本刀に使われる1級品はその1割程度だそうです。
玉鋼がいかに貴重でコストのかかるものかご理解いただけると思います。

生産効率の低さと高いコストのため、たたら製鉄は西洋製鉄に駆逐されました。
しかし、日本刀の玉鋼の生産のために日刀保たたらが復活しました。
このほかにも、日本各地でたたら製鉄の公開実演が行われているそうです。
雲南市の「鉄の歴史村」では、1泊2日から「たたら実習生」が行われています。

木原村下は外国を含めて各地で講演活動を行っています。
また、奥出雲地方には、たたら製鉄の史跡のほか、鉄の博物館や民俗資料館が
多数あり、日本刀美術館では刀打ちが行われるなど、観光資源としても
人気を呼んでいます。
世界的に希有な日本古来の砂鉄製鉄の文化が脈々と受け継がれています。17/03/30

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konnaii について

「こんないいオヤジ」 こと 今内祥雅(こんない よしまさ) と申します。 60歳。札幌市で妻と2人暮らし。 元公務員、現在は自営などその日暮らし。 「プロフィール」をご覧ください。
カテゴリー: 旅行, 未分類, 歴史, 農林業・自然 タグ: , , , , , パーマリンク

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