いつもでない広島

原爆ドーム昨日は8月6日、広島原爆の日でした。
2年前のこの日、私は原爆ドームの前にいました。
暑い日で、セミがうるさいくらいジージー鳴いていました。毎年、この日だけは広島がいつもでない広島になります。
「観光コースでない広島」という内容の重たい本を抱えて、あちこち原爆にまつわる施設を回りました。
廣島、ヒロシマ、広島という変遷とともに広島のことを書きます。

当時私は広島県内に住んでいて、買い物とか催し物で時々広島市へ行きましたが、
正直に言って広島へ行くのはいつも重たい気持ちでした。
やはり原爆の印象があり、戦争の大きな犠牲になってもらって申し訳ない、
いたましいという気持ちが付きまとっていたからです。
しかし、改めて「広島」を見つめたい、正面から向き合わなければと思い、
決心して原爆の日に広島へ行きました。

歩き回ったところは本当に観光コースではありません。
爆心地に近い小学校2つにある記念室、爆風で塔の先端が曲がったままのお寺、
4km離れていたにもかかわらず窓枠が歪んだ気象観測所とその記録、
熱線により石垣が変色した神社、米軍が残した原爆の人体への影響を調べる
ための研究所などです。

「観光コースでない広島 被害と加害の歴史の現場を歩く」
(澤野重男ほか著、高文研発行)などを参考にしました。
どこへ行っても、当時の悲惨な状景が思われて痛切な思いをしましたが、
それは感傷的な私のことで、今でもそれを引きずっている住民の方はいません。
現在そこに暮らしている方々は、過去は過去として捉えているのでしょうが、
原爆の日であっても、いかにも平常に明るく暮らしていることが
半分安心に思えました。

広島はただの原爆被爆地ではありません。
かつては「軍都」であり、陸軍第5師団が置かれ、日清戦争の時には明治天皇が
御座する大本営が置かれました。
近隣の呉は海軍の大軍港で、江田島には海軍兵学校がありました。
廣島は一方の陸軍の軍都でした。
海外で死傷した軍人が帰り着くのが廣島であり、宇品港にその碑があります。
日中戦争の時には廣島から兵が送り出されました。
廣島の近く、今はウサギの島として知られる大久野島には極秘の
毒ガス工場がありました。廣島は加害の歴史もあるのです。

軍港 呉は、太平洋戦争で米軍が日本の制空権を得た始めのころから
空襲を受けていますが、廣島は難を逃れていました。
これがあだになりました。
いろいろな説がありますが、米軍が最初の原爆投下地として廣島を選んだのは、
都市の規模が原爆の「実験」にちょうどよかったこと、
それまで被害を受けていないので原爆の効果を後々測定しやすいこと、
だったと言われています。
その結果、廣島が被爆地ヒロシマになってしまいました。

史上初めての原爆被爆地ヒロシマの名は世界に知られています、
しかしいつまでもヒロシマではありません。
たくましく再生し、今は新しい広島があります。平和通りには若者が闊歩し、
町の中心部はこじゃれた店や活気のある飲食店が建ち並び、
被爆を思わせる雰囲気はありません。

しかし、広島市民は原爆を決して忘れていません。
市内のあちこちに慰霊碑や記念碑があり、被爆時にここはこういう
場所だったという解説板が多数あります。
老朽化したので建て直したいという被爆施設や、もはや建っていることが
危険だから壊したいという被爆した壁を残そうという運動が行われています。
自分たちの想いを残し、伝えなければならないという使命感のようなものを
感じます。広島の人々にとって、原爆は過去の記憶ではなく、
今なお残り、将来に伝えていかなくてはならない業(ごう)なのだと感じました。

原爆の悲惨さについては改めて述べません。しかしこれほど強大で
非人道的な兵器が許されていいものしょうか。
もし皆さんが広島平和記念資料館(原爆資料館)をご覧になったことがないなら、
是非ご覧になることをお勧めします。ここを見ると人生観が変わります。 2014.08.07

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konnaii について

「こんないいオヤジ」 こと 今内祥雅(こんない よしまさ) と申します。 60歳。札幌市で妻と2人暮らし。 元公務員、現在は自営などその日暮らし。 「プロフィール」をご覧ください。
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